講演録:「世界を魅了し続ける偉大な芸術家!葛飾北斎」4

第4回)巨匠北斎、さらなる高みへ

親友・柳亭種彦の死と天保の改革

さて今回は、北斎の晩年、とくに八十代から九十歳で亡くなるまでの歩みを中心にお話しいたしました。前回の最後に触れましたように、北斎にとって大きな出来事の一つが、親友であった柳亭種彦の死であります。天保の改革の中で種彦は捕らえられ、記録上は病死とされていますが、北斎はそれを素直には受け止められなかったようです。拷問を思わせる凄惨な絵をこの時期に描いていることからも、彼の胸中には、友を失った怒りや疑念が深く残っていたのではないかと思われます。

高井鴻山との出会いと小布施での制作

そのような時期に北斎が出会ったのが、信州小布施の豪農で名主でもあった高井鴻山です。鴻山は北斎の弟子となり、北斎は八十四歳頃から何度か小布施を訪れます。江戸では蘭学嫌いの鳥居耀蔵らによる締め付けも厳しく、北斎のもとにあった西洋由来の珍しい品々も、幕府に目を付けられる危険があったかもしれません。そう考えると、北斎が小布施へ向かったことには、単なる旅行以上の意味があったようにも思えます。小布施では祭屋台の天井絵を描き、東町の龍と鳳凰、上町の男波・女波など、現在でも北斎晩年の重要な仕事として語られています。周囲の草花などには娘のお栄の手も入っていた可能性が高く、父娘で制作に関わっていた様子がうかがえます。

九十歳の最期と「真正の画工」への思い

嘉永二年、北斎は九十歳を迎えます。正月にはまだ元気で、「雪中虎図」「骸骨図」「富士越龍図」などを描いていますが、三月頃から体調を崩し、医者はお栄に老衰だと告げます。四月十八日午前四時、北斎は亡くなりました。死の間際に「あと五年の命があれば真正の画工になれたのに」と語ったという話は有名ですが、これはまことに北斎らしい言葉です。すでに世界的な巨匠といえる仕事を残しながら、本人にとってはまだ道半ばだったわけです。葬儀は浅草の誓教寺で行われ、粗末な棺でありながら、見送りには槍や挟箱を持つ上級武士まで加わったといいます。貧しい長屋から出た葬列に、これほどの人々が従ったというのは前代未聞であり、北斎が晩年には町絵師を超えた存在として尊敬されていたことがよくわかります。

浅草誓教寺の北斎の銅像

もし北斎がペリー来航を見ていたら

北斎が亡くなった四年後にはペリーが来航し、日本は開国へと向かいます。もし北斎があと五年生きていたなら、蒸気機関車の模型や写真といった西洋の新しい技術を目にしたはずです。写真を見た北斎が何を考え、どのような絵を描いたかを想像すると、まことに惜しい気がいたします。さらに明治維新まで生きていれば百九歳。百歳を超えれば一点一角に生命を宿す絵が描けると言っていた北斎ですから、近代化する日本を前に、どんな境地に至ったかと考えるだけでも夢があります。

ペリーイメージ

晩年の画風――花鳥・古典・肉筆画へ

晩年の北斎は、若い頃のように江戸の風俗や浮世を描くことから少しずつ離れ、花鳥、古典、宗教画、そして一点ものの肉筆画へと関心を移していきます。花鳥図では、牡丹や蝶、桜や鷹、文鳥や拳などを組み合わせ、風や空気まで画面に封じ込めたような作品を残しました。ただし北斎は単なる写生家ではありません。蝶の姿に蛾の模様を組み合わせるように、見たものをそのまま描くのではなく、自分の頭の中で最も絵になる形へ作り替えていく。ここが北斎の面白いところです。東海道五十三次を一枚の鳥瞰図に収めるような大胆な構成も、実際の視点ではなく、想像力と空間把握力によって成り立っています。

「東海道名所一覧」

技法を後世に伝えるという意識

また、北斎は自分の技法を後世に伝えようとしたのか、「絵本彩色通」のように、筆の使い方や絵の具の作り方、色の調合まで細かく記した本も残しています。これは単なる絵手本というより、後進への実践的な教科書であり、現在の美術教育の目で見ても非常に優れた内容だといえます。天保の飢饉の際には、紙という紙に肉筆画を描いて版元に売らせ、絵師や職人たちを食いつながせたという話もあります。巨匠でありながら生活の苦労も知り、なお絵を描くことで周囲を支えた姿が見えてきます。

「絵本彩色通 初編」より

川柳に見る北斎のもう一つの顔

さらに北斎には、絵師とは別の顔もありました。若い頃から川柳に親しみ、弟子や娘のお栄を伴って川柳会にも参加し、自ら主催するほどの熱中ぶりだったのです。号の変遷を見ても、川柳の世界で使った名を、のちに絵師として用いるような流れがあり、表の画業と私的な文芸活動が重なり合っていたことがわかります。北斎という人物は、浮世絵師だけでは到底くくれない、文芸と絵画のあいだを自在に行き来した人だったのです。

「風流 おどけ百句」より『下手のまり はやくよこせとせがまれる』とある

最後まで高みを目指した画狂老人

結局、北斎の晩年を見ますと、彼は老いてなお衰えるどころか、ますます高みを目指していたことがわかります。線には体力の衰えが見える作品もあります。しかしその一方で、主題はより深まり、花鳥、歴史、宗教、技法書、川柳へと広がっていく。北斎は九十年の生涯を閉じてもなお、自分を完成した画工とは考えていませんでした。だからこそ私たちは、彼の作品に完成品としての美しさだけでなく、最後まで学び、変わり、描き続けようとした人間の執念を見ることができるのです。北斎という人は、まことに最後の最後まで、さらなる高みを見続けた画狂老人であった、ということになるわけです。