講演録:「世界を魅了し続ける偉大な芸術家!葛飾北斎」3
第3回 俺北斎、まじ卍

浮世絵の作り方
今回は、「世界を魅了し続ける偉大な芸術家!葛飾北斎」の第3回として、北斎が70歳を過ぎてから本領を発揮していく時期を中心に見ていきます。まず最初に、浮世絵、特に錦絵がどのように作られるのかを確認しておきます。絵師が描いた原画は、そのまま残るものではありません。彫師に渡されると、絵の表側に糊を塗って版木に貼り、その線に沿って彫られていきます。つまり、原画は版木を作る過程で失われてしまうわけです。その後、主な線を刷る主版と、色ごとに作られる色版を重ね、刷師の技術によって色やぼかしが表現されます。広い面のぼかしは彫りぼかし、狭い部分のぼかしは刷りぼかしというように、彫師と刷師の技が合わさって、ようやく一枚の錦絵が完成するのです。
初刷りと後刷り
浮世絵は一度に大量に刷られるものではなく、まずおよそ200枚ほどが初刷りとして作られます。この初刷りには絵師の監督が入り、色合いや濃淡にも絵師の意向が強く反映されます。一方、追加で刷られる後刷りになると、絵師よりも版元、つまり出版社やプロデューサーにあたる人物の意向が強くなります。売れ行きを見ながら、色を濃くしたり、雲を増やしたり、時には版木が傷んだために周辺を描き足したりすることもあります。こうなると、もとの作品とは少し違う「異版」になっていく場合もあるのです。したがって、同じ北斎の作品であっても、初刷りか後刷りか、またどの版かによって、見え方も価値も変わってくるのです。
黒富士と赤富士
その具体例として取り上げたのが、『冨嶽三十六景』の「山下白雨」、いわゆる黒富士と、「凱風快晴」、いわゆる赤富士です。黒富士の場合、初刷りでは版木の油がまだ強く、稲妻の線がやや細く出るなど、初期の刷りならではの特徴が見られます。赤富士も、もともとの初刷りは現在よく知られているものとは少し異なり、江戸の人々にはあまり受けなかったようです。そこで、雲を加えたり、富士山をよりはっきり見せたりした後刷りが作られ、私たちがよく知る赤富士の姿が広まっていきます。つまり、北斎や版元が最初に意図したものがそのまま人気作になるとは限らず、江戸の人々の好みや市場の反応が作品の姿を変えていったのです。


ベロ藍と富士
『冨嶽三十六景』が生まれた背景には、ベロ藍という新しい青の登場があります。これはベルリンで作られた合成染料で、江戸では文政年間の終わり頃から広がっていきました。北斎と版元の西村屋与八は、この新しい青を生かして、富士山をさまざまな視点から描くシリーズを企画しました。当時、江戸では富士講が流行し、富士山への信仰や旅行への関心が高まっていましたから、富士を題材にした作品は大きな需要が見込めたのです。実際、『冨嶽三十六景』は大ヒットし、追加の十景を含めて全46図となりました。その中でも、日本で人気の赤富士、外国人に強い印象を与えた「神奈川沖浪裏」、そして黒富士は、特に代表的な三作品として知られています。
北斎の風景
ただし、北斎は現実をそのまま写す写真家ではありません。富士山の位置や風景の組み立てには、実際の地理とは違うところも多くあります。たとえば日本橋や三井店を描いた作品では、現実の位置関係とは合わない形で富士山が配置されています。しかし、それは間違いというより、絵として最も美しく、納得できる構図を作るための北斎の工夫なのです。見る人が「本当にこう見えるのだ」と信じてしまうほど、画面の説得力が強かったということでもあります。北斎は、現実の風景を材料にしながら、理想の風景へと組み替える力を持っていたわけです。

七十歳からの本領
北斎がすごいのは、この大作を70歳を過ぎてから生み出したことです。本人も『富嶽百景』の跋文で、6歳から物の形を写す癖があり、50歳頃から本格的に作品を発表してきたけれども、70歳以前のものは取るに足らないとまで語っています。そして73歳になってようやく鳥や獣、虫や魚、草木の成り立ちが少しわかってきた、86歳でさらに進み、90歳で奥義を極め、100歳で神妙の域に達するだろうと述べています。これは単なる長生き願望ではなく、いつまでも上達し続けたいという、北斎の非常に強い制作意欲の表れです。90歳に近づいてもなお、自分はまだ修行の途中だと考えていたところに、北斎という人の異常なまでのエネルギーが表れています。
広がる関心
『冨嶽三十六景』の後も、北斎は富士山を描き続け、『富嶽百景』へと進みます。ただ、世の中の関心は少しずつ変わり、版元も錦絵ではなく版本として出す方向に切り替えます。さらに北斎は、橋を題材にした『諸国名橋奇覧』、琉球ブームを受けた『琉球八景』、水の流れに魅了された『諸国瀧廻り』、怪談を題材にした『百物語』など、次々に主題を変えていきます。北斎は一つの題材に長く執着するというより、興味が動けばすぐに次へ進む人でした。水や波、橋や滝、怪談や異国風景まで、何でも絵にしてみたいという好奇心が働いていたのです。その一方で、広重は東海道五十三次などで旅情を描き、江戸の人々の人気を集めていきます。北斎の激しい表現から、広重の穏やかな風景へと、庶民の好みも少しずつ変わっていったとも言えます。

小布施の晩年
晩年の北斎は、天保の改革や出版統制、親しい戯作者であった柳亭種彦の獄死といった不穏な時代の中を生きます。その頃、小布施の豪商で文化人でもあった高井鴻山との縁ができ、北斎は80歳を過ぎてから信州小布施へ何度も足を運んだと考えられます。講演では、小布施行きの時期について、従来言われる天保14年ではなく、天保13年に最初の訪問があった可能性も示されました。手紙や仕事の記録、所在不明の期間などを手がかりに、北斎がいつどこで何をしていたのかを慎重に考える必要があるというわけです。小布施では祭屋台の天井絵や岩松院の鳳凰図など、晩年の大作につながる仕事が行われたと考えられます。
北斎という人物
最後に、北斎の改名の多さにも触れました。幼名から始まり、勝川春朗、北斎、戴斗、為一、卍など、北斎は生涯にわたって何度も名を変えています。普通なら名前を変えることは人気や認知を失う危険がありますが、北斎はそれを承知で変え続けました。また、川柳にも深く関わり、絵師としてだけではない文化人としての顔も持っていました。今回の講演から見えてくる北斎は、70歳を過ぎてから代表作を生み、80歳を過ぎても旅をし、90歳近くなってもなお上達を望み続けた人物です。浮世絵の制作技術、市場の反応、江戸の流行、時代の圧力、そして本人の尽きない好奇心が重なり合って、北斎という芸術家の晩年の大きさが形作られていったのです。
第4回に続く】
※当講演は2026年6月16日に実施した「横須賀市民大学2026」第3回講座を元に構成しています
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