講演録:「世界を魅了し続ける偉大な芸術家!葛飾北斎」2

第2回)あれも北斎これも北斎、デス!
浮世絵はチームで作るもの
はい、それではですね、今回の講演は「世界を魅了し続ける偉大な芸術家!葛飾北斎」の第2回、「あれも北斎これも北斎」というお話でございます。北斎というと、どうしても皆さん「冨嶽三十六景」だとか「神奈川沖浪裏」だとか、そういう有名な絵を思い浮かべるわけですが、実はそれだけじゃないんですね。読本の挿絵も描く、絵手本も作る、工芸品の図案も描く、洋風の絵まで試みる。つまり、頼まれれば本当に何でも描く、ものすごく幅の広い絵師だったわけです。まずその前提として、浮世絵というのは絵師一人で勝手に作るものではなく、版元、絵師、彫師、摺師という四者の共同作業で世に出るものだという説明がありました。版元が企画を考え、お金を出し、絵師に頼み、彫師が版木を彫り、摺師が色を重ねる。しかも原画は版木に貼って彫られるので、そこで消えてしまうんですね。だから「浮世絵の原画を持っている」なんていう話は、まず怪しいと思った方がいい、というわけです。
北斎の引っ越し癖と人柄
そして北斎の人物像として紹介されたのが、あの有名な引っ越し癖です。なんと93回も引っ越したと言われております。これ、なかなか普通の人にはできません。理由については、掃除をしないので部屋がどんどん汚くなって、足の踏み場もなくなったら引っ越したとか、放蕩孫が金をせびりに来るので逃げ回ったとか、あるいは創作意欲を保つために場所を変えたのだとか、いろいろな説があるわけです。私はその中でも、やはり掃除嫌い説を採用します。北斎は料理もしない、掃除もしない、買ってきたものを食べて、その包みをそのまま置いておく。三女のお栄も似たような生活ぶりだったということで、親子そろってなかなか片付けない人たちだったらしいんですね。ただ、隅田川の周辺を好んで移り住んだという点から、川のそばに身を置くことが、北斎にとって何か大事な感覚だったのかもしれません。
「北斎」という名と妙見信仰
北斎が本格的に「北斎」と名乗るのは、39歳の寛政10年のことです。それまで名乗っていた俵屋宗理の名を返上し、「北斎辰政」として独立するわけですね。この「北斎」という名には、日蓮宗で大切にされる北辰妙見信仰が関わっていると説明されました。北辰とは北極星のことで、北斗七星とともに妙見菩薩の信仰につながります。北斎は柳島妙見、現在の墨田区にある法性寺の妙見様を篤く信仰していたと言われています。ある時、参詣の途中で落雷を目撃し、その後に朱描きの鍾馗図が二両で売れた。そこから運が向いてきたという話も紹介されました。さらに「師蔵家」という印の意味も重要です。これは、特定の師匠ではなく、森羅万象すべてが自分の師である、という北斎の独立宣言のようなものなんですね。


巨大達磨で名を売る北斎
とはいえ、独立したからといって、すぐに仕事がどんどん来るわけではありません。今のように広告代理店があるわけでもないので、自分で名前を売らなければいけない。そこで北斎がやったのが、いわばパフォーマンスです。護国寺や本所回向院などで、120畳敷きほどの大きな紙に巨大な達磨や布袋を描く。しかもそれだけではなく、ご飯粒に雀を二羽描いたというような、極小の技巧も見せる。大きなものも描けるし、小さなものも描ける。見ている人からすれば、「あの絵師はただ者じゃないぞ」となるわけです。こうして北斎の評判は広がり、弟子も増えていきます。そして文化期になると、読本が流行し始めます。そこで北斎が出会ったのが曲亭馬琴です。馬琴の緻密な物語と、北斎の大胆な挿絵が組み合わさることで、『三七全伝南柯夢』や『椿説弓張月』といった大ヒット作が生まれました。
馬琴との名コンビと読本の広がり

馬琴と北斎の関係については、よく「けんか別れした」と言われます。狐を勝手に描き加えたとか、草鞋をくわえさせなかったとか、いろいろな逸話が残っているわけです。ただ、これは後の人が面白く語った部分が大きいのではないか、思います。実際には、その後も二人の共同作品は出ていますから、単純に絶交したとは言えないんですね。むしろ、馬琴との仕事を通じて北斎は経済的にも安定し、挿絵の画面構成でも大きく飛躍しました。ページの枠の中におとなしく収めるのではなく、見開きいっぱいに使う、余白に波を描く、画面からはみ出すような迫力を出す。こういう発想が、北斎らしさとして強調されていました。その後、北斎は弟子の柳川重信を馬琴に推薦し、重信は『南総里見八犬伝』の挿絵で名を上げます。ところが重信は北斎の養子となり、娘の阿美与と結婚し、さらに離縁するなど、北斎家の人間関係はなかなか複雑になっていきます。


隅田川から荒波へ――広がる北斎の表現
北斎の仕事は読本挿絵だけではありません。たとえば『隅田川両岸景色図巻』という、7メートルにも及ぶ長い絵巻があります。隅田川の両岸を描きながら、最後は吉原の座敷へ入っていくという、非常に凝った作品です。ここで注目されるのが、西洋画のような光と影、そして遠近表現です。日本の絵ではあまり影を描かないのに、北斎は橋や船の下に影をつけている。理論としての遠近法を完全に知っていたわけではないにしても、自分なりに解釈して使っているんですね。また、房総旅行で外房の荒波を見たことが、後の波の表現、つまり「神奈川沖浪裏」につながったのではないかという話もありました。隅田川のような穏やかな水しか知らなかった北斎が、外房で荒波に出会い、生涯にわたって波を研究するきっかけを得たのかもしれない、というわけです。
『北斎漫画』という森羅万象の絵手本

そして今回の大きな柱の一つが『北斎漫画』です。これは現代でいうストーリー漫画とは違って、「漫ろに描いた画」、つまり思いつくままに森羅万象を描いた絵手本です。北斎には全国に弟子がいました。青森から熊本まで散らばっている弟子たちに、一人ひとり肉筆で教えるわけにはいきません。そこで、じゃあ本にしてしまえばいい、ということで生まれたのが『北斎漫画』なんですね。魚、人物、変顔、幽霊、人魚、河童、霊獣、踊り、建築、武具、職人の図案まで、とにかく何でも入っている。弟子だけでなく、大工や飾り職人、工芸に関わる人たちにも役立つ本だったわけです。しかも版元からすれば、北斎の名で売れるわけですから、一冊で終わらせるのはもったいない。こうして続編が重ねられ、北斎の没後も出版され、最終第15編は明治11年に出ることになります。
あれも北斎、これも北斎――総合的な表現者として
年表を見ますと、寛政10年の独立から、文化・文政期にかけて、北斎がどんどん活動の幅を広げていったことがよくわかります。文化元年には巨大達磨図のパフォーマンス、文化2年頃には馬琴との出会い、文化9年には関西旅行の途中で名古屋に立ち寄り、『北斎漫画』の下絵を描く。そして文化11年には『伝神開手 北斎漫画』が刊行されます。さらに立版古、踊りの稽古本、建築図案、キセルの装飾見本、鳥瞰図、洋風表現、双六まで、本当に「あれも北斎、これも北斎」なんですね。講演全体を通じて強調されていたのは、北斎は単に富士山を描いた有名な絵師ではなく、江戸の出版文化、職人文化、見世物的なパフォーマンス、西洋への関心、弟子教育を全部つないでいった総合的な表現者だったということです。だからこそ、今でも世界中の人を驚かせ続けているわけですね。
【第3回に続く】
※当講演は2026年6月2日に実施した「横須賀市民大学2026」第2回講座を元に構成しています
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