講演録:「世界を魅了し続ける偉大な芸術家!葛飾北斎」1

墨田区両国の葛飾北斎像

第1回)北斎誕生までの話

北斎人気と講演の位置づけ

 はい、今日はですね、「世界を魅了し続ける偉大な芸術家・葛飾北斎」の第1回ということで、北斎がまだ「北斎」と名乗る前のお話をしてまいります。生まれてから若い頃、勝川春朗の時代、それから俵屋宗理の時代を経て、いよいよ独立していくところまでですね。まず押さえておきたいのは、北斎という人が今でも本当に有名だということです。千円札やパスポートにも使われておりますし、何といっても『冨嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」は、日本を代表する絵として世界中で知られています。ですから北斎は、単なる江戸の絵師というより、日本文化そのものを背負っているような存在なんですね。

生年・没年と墓に残る手がかり

さて、北斎がいつ生まれたのかという話なんですが、これが江戸時代らしくて、なかなかすっきりとはいきません。本人が後に描いた「大黒天図」の落款などを根拠に、宝暦10年、つまり1760年の生まれと考えられています。ただし当時は、誕生日を現代ほどきちんと記録する時代ではありませんし、旧暦と新暦の換算もありますから、今の暦でいうと10月30日か31日あたりだろう、ということになります。一方、亡くなった日は比較的はっきりしています。嘉永2年、1849年4月18日、数え年で90歳。今の満年齢で言えば88歳半ほどですから、当時としては大変な長寿ですね。浅草の誓教寺にお墓がありまして、そこには「画狂老人卍」と刻まれています。絵が好きで好きでたまらない老人、という感じの名ですね。また墓石の土台には「川村氏」とありますので、北斎の本来の姓は川村だったのではないか、と考えられています。

台東区浅草誓教寺の葛飾北斎胸像
葛飾北斎の墓(画狂人北斎と刻まれている)

出自と家族にまつわる逸話

北斎は江戸本所、今の東京都墨田区あたりで生まれたとされています。幼名は時太郎、のちに鉄蔵と名乗ります。小さい頃には、母方の親戚にあたる幕府御用の鏡師、中島伊勢の家に養子に入ったとも言われています。母親については面白い話がありまして、北斎本人が「うちの母は、忠臣蔵で吉良方として戦った小林平八郎の孫娘なんだ」と言い続けていたそうです。もちろん確証はありません。ただ、本人がそう言い続けていたなら、まあ一応信じてあげましょう、というのが歴史を見るときの一つの姿勢でもありますね。家族については、北斎は二度結婚し、何人もの子をもうけています。中でも娘のお栄、後の葛飾応為は絵の才能に恵まれ、晩年の北斎を支えた重要な人物です。

墨田区両国吉良邸の高札

若年期の修業と勝川春朗時代

若い頃の北斎は、いきなり絵師として出発したわけではありません。貸本屋の小僧をしたり、版木彫りを学んだりして、浮世絵の現場に近いところで経験を積んでいきます。浮世絵というのは、絵師が絵を描き、彫師が板を彫り、摺師が色を摺るという共同作業ですから、若い頃に彫りを知っていたことは、後の北斎の画面づくりにかなり効いていると思います。そして19歳の時、当時一流の浮世絵師だった勝川春章に入門し、「春朗」という名をもらいます。春章は役者の顔や個性を描き分ける役者絵で人気を博した人です。北斎も初期には、まさに勝川派らしい役者絵を描いています。入門してすぐ作品を出していることから見ても、若い頃から相当な力量があったのでしょうね。

勝川春朗時代の役者絵

流派を越えた学びと勝川派からの離脱

ところが北斎という人は、勝川派だけで満足する人ではありませんでした。狩野派も学ぶ、土佐派も見る、鳥居派も吸収する、さらには西洋画の遠近法や銅版画風の表現まで取り入れようとする。とにかく絵に関して貪欲なんですね。そうなりますと、一門の中では当然おもしろく思わない人も出てきます。師の春章が亡くなった後、北斎は破門、あるいはそれに近い形で勝川派を離れることになります。生活も苦しくなって、唐辛子売りや暦売り、戯作のようなことまでやったと伝えられます。ただ、こうした寄り道のように見える経験も、後の北斎の表現を広げていく材料になっていくんですね。北斎のすごさは、一つの流派におとなしく収まらなかったところにあります。

俵屋宗理時代と摺物の世界

その後、北斎は俵屋宗理を名乗ります。ここで関わっていくのが、琳派系の摺物や狂歌絵本の世界です。摺物というのは、町で大量に売る浮世絵とは違いまして、狂歌連など、限られた仲間内で配る私的で高級な印刷物です。紙もよい、絵具もよい、しかも構図もかなり自由に試せる。北斎にとっては、これは新しい表現を試す絶好の場だったわけですね。この時期の「宗理美人」は、瓜実顔に富士額、細くしなやかな姿が特徴で、後の美人画にも大きな影響を与えました。また大小暦や判じ絵のように、江戸の人々の知的な遊びと結びついた作品も手がけています。北斎は、庶民文化の面白さと高度な造形感覚を、うまく結びつけていたんですね。

俵屋宗理時代の浮世絵

オランダ商館長依頼の逸話

オランダ商館長から絵を頼まれたという逸話も紹介します。北斎は、日本人の一生を描いた巻物を依頼され、きちんと仕上げて持っていきます。ところが、同行していた医師が「自分は薄給だから半額で買いたい」と言った。普通なら、生活が苦しければ売ってしまいそうなものですが、北斎は値引きに応じず、絵を持ち帰ったというんですね。なぜかというと、自分だけの問題ではなく、日本の絵師全体が安く見られてしまうのは困る、という誇りがあったからです。この話はシーボルトに結びつけられることもありますが、時代が合わないのではないか、もっと早い時期のオランダ商館関係者ではないか、という見方をしています。

中央区室町にあったオランダ商館使節の宿屋長崎屋の様子『画本東都遊』(葛飾北斎画)

独立と「北斎辰政」への改名

そして寛政10年、1798年、北斎は俵屋宗理の名を弟子に譲り、琳派からも離れて独立します。この時に名乗ったのが「北斎辰政」です。改名を知らせる摺物「亀図」には、「師造化」という印が押されています。これは、特定の流派や師匠ではなく、森羅万象、つまり自然そのものを師とするという意味ですね。ここに、北斎の大きな決意が表れています。第1回の講演は、後に世界的な芸術家となる北斎が、出自の曖昧さや家族の問題、貧困、破門、流派の移動といったさまざまな経験を通じて、あらゆる表現を吸収し、自立した絵師へと成長していく過程を語ったものです。つまり北斎は、最初から完成された天才だったというより、何でも見て、何でも学び、何でも自分の絵にしていった人だった、ということですね。

【第2回に続く】

※当講演は2026年5月19日に実施した「横須賀市民大学2026」第1回講座を元に構成しています

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