講演録「北斎の時代に学ぶ江戸町人の食と健康」

1. 北斎の長寿薬と江戸の健康観
はい、今日はですね、葛飾北斎が生きていた江戸の後期、だいたい1800年前後を手がかりにしながら、江戸の人たちがどんなものを食べ、どうやって健康を保っていたのかというお話をしていきます。北斎の長寿薬の話も伝わっていますが、ここでは細かな逸話はひとまず置いておきます。大事なのは、龍眼肉という漢方にも使われる乾燥果実が、白砂糖や焼酎と合わせて滋養のあるものとして受け止められていた、という点です。龍眼肉は甘みが強く、ドライフルーツのような風味を持つ一方、輸入系の薬材として薬種屋で扱われ、庶民の日常食というよりは、やや高価な養生の材料だったと考えられます。つまり当時の人々は、身近な食べ物だけでなく、少し特別な薬材も取り入れながら、「これは体によい」と経験的に感じるものを生活に生かしていたわけですね。

2. 江戸の町づくりと初期の食生活
では、江戸の町そのものはどうだったかというと、もともとは小さな漁村がいくつかある程度の場所でした。そこへ徳川家康が入り、江戸城を整え、町をつくるために全国から大勢の労働者が集まってきます。最初のうちは、ほとんどが男性なんですね。明暦の大火のあとに町の復興が進み、道や町割りが整っていくにつれて、家族連れも増え、江戸後期の文化文政のころには、ようやく男女の数もだいたい釣り合ってきます。とはいえ、初期の江戸は独身男性が多い町ですから、自分で料理をするよりも外で食べることが中心になります。そこで奈良茶飯屋のような、茶飯に汁物と漬物がつくような簡単な食事処が出てくるわけです。当時は副菜も少なく、栄養は主に米から取っていましたから、一日に五合もの米を食べることも珍しくありませんでした。しかも雑穀や玄米も含まれていて、朝から晩まで肉体労働をしていたので、江戸の労働者たちはなかなかたくましい体をしていたと考えられます。

3. 江戸前の魚介と江戸野菜の広がり
町がだんだん発展してくると、食べ物もずいぶん豊かになっていきます。江戸の場合、何といっても江戸前の魚介類があります。佃島の漁師たちが将軍家に魚を納め、その残りを町の人たちに売ったことが、日本橋の魚河岸の始まりになっていくんですね。江戸前では鰻、鯛、穴子、鱚、ハゼ、しじみ、あさりなど、さまざまな魚介が取れましたから、これは庶民にとって大事なたんぱく源でした。野菜のほうも、向島の御前菜畑をはじめ、練馬大根、亀戸大根、滝野川のごぼうや人参、小松菜、寺島なす、千住ねぎ、谷中しょうがなど、いまでも名前の残る江戸野菜があちこちから運ばれてきます。こうした新鮮な魚や野菜が市場に集まることで、江戸の食卓はだんだん豊かになっていったわけです。

4. 白米食・脚気・グルメ文化の発展
ただし、いいことばかりではありません。江戸では白い米を食べることが「粋」だとされるようになり、雑穀から白米中心の食事に変わっていくと、脚気という病気が広がっていきます。けれども庶民は、学問として栄養を知っていたわけではないにしても、経験的に対処法を身につけていました。魚介類を食べるだけでなく、ももんじ屋で猪肉を食べたり、鶏肉を食べたり、栄養のある蕎麦を好んだりして、知らず知らずのうちに体に必要なものを補っていたんですね。さらに文化文政のころになると、野田や銚子で香りのよい濃口醤油が発達し、関西からはみりんも伝わります。これによって魚の臭みを抑えたり、煮物を作ったりできるようになり、江戸の料理は一気に広がっていきます。「豆腐百珍」や「卵百珍」のような料理本も流行し、握り寿司、天ぷら、蕎麦、団子、汁粉、水菓子といった屋台の食べ物も町にあふれます。つまり江戸の健康食というのは、医学の知識だけでできたものではなく、町の発展、流通の広がり、そして庶民が実際に食べながら身につけた知恵によって形づくられていったものだ、ということなんですね。


庶民は栄養補給や脚気対策として肉を取り入れていた。両国周辺にも店があった。



