講演要約「箕輪家流隅田囃子の源流と魅力」

お囃子は、神楽から生まれた祭りの音楽です
皆さん、ふだん「お囃子」と聞くと、まず太鼓や笛の演奏を思い浮かべると思います。けれども、その始まりをたどると、もともとは神様に奉納する「神楽」から分かれてきたものなんですね。宮中で行われた大きな神楽から、やがて村々の神社で氏子たちが祭礼のために演奏する形へと変わっていきました。専門の楽人ではなく、地域の人たちが集まって稽古し、祭りを盛り上げるために音を出す。そこから、現在につながる祭り囃子が育っていったわけです。
起源をめぐる二つの説
江戸祭り囃子の起源については、代表的な説が二つあります。一つは、源頼朝が征夷大将軍となった祝いに鶴岡八幡宮で舞われた神楽が、世田谷の吉良氏に伝わったという説。もう一つは、葛西、現在の金町周辺にあった葛西神社の神官、能勢環が、享保年間に五穀豊穣を祈って始めたという説です。どちらが絶対に正しいとは言い切れませんが、箕輪囃子を考えるうえでは、私は葛西説を中心に見ていくと流れがよく見えてくると思っています。
和歌囃子から馬鹿囃子へ
葛西神社で始まったとされる囃子は、和歌の音律に合わせて作られたため、当初は「和歌囃子」と呼ばれました。ところが、村の若者たちにとっては、和歌という言葉よりも、太鼓を叩き、笛を吹き、仲間と楽しむことの方が身近だったのでしょう。いつしか「馬鹿囃子」と呼ばれるようになります。馬鹿みたいにずっと続くから、あるいは「和歌」がなまったからとも言われますが、いずれにしても、これは庶民の楽しみとして広まっていった証でもあります。
伊奈忠逵と葛西囃子の広がり
この囃子が大きく広がるきっかけになったのが、関東代官頭の伊奈半左衛門忠逵です。八代将軍徳川吉宗の時代、農村を安定させ、若者を健全に導くことは大切な政策でした。そこで伊奈は、囃子を青少年の善導、一家の和合につながるものとして奨励したのです。よく稽古した若者を神田明神や山王祭のような天下祭へ推薦し、江戸で演奏する機会を与えた。これは若者たちにとって大きな名誉であり、囃子熱を一気に高めることになりました。
古流の箕輪囃子と切り囃子
もともとの古い囃子は、曲と曲の切れ目をはっきり作らず、笛の合図を受けて太鼓や小太鼓が次の曲へ移り、長い時間続けて演奏するものでした。この連続して演奏する古い形を「美濃かえくずし」「蓑綾くずし」、そして「箕輪囃子」と呼びます。一方、江戸の祭礼や将軍上覧の場では、演奏時間を区切り、曲ごとに終わりを示す必要が出てきます。こうして生まれたのが「切り囃子」です。切り囃子は神田囃子、本所囃子、深川囃子などへ広がり、江戸町人文化の中に定着していきました。
隅田囃子は鐘ヶ淵紡績から地域へ
では、箕輪家流隅田囃子はどこから始まったのでしょうか。鍵になるのは、明治二十年に鐘ヶ淵に生まれた近代的な紡績会社、のちの鐘淵紡績です。工場には全国から若い工員や工女が集まりました。働く場であると同時に、若い力をどう健全に育て、楽しませるかも大きな課題だったのでしょう。その中で囃子の稽古が行われ、工場を中心に箕輪囃子の流れが受け継がれていったと考えられます。戦後になると、地元の若者たちがこの囃子を引き継ぎ、保存会を結成し、「箕輪家流隅田囃子」として隅田川神社や香取神社の祭礼に参加するようになりました。

守りながら変わっていくことが文化の力です
箕輪囃子には、屋台、昇殿、鎌倉、四丁目、神田丸など、さまざまな曲が伝えられています。曲名や呼び方は地域によって少しずつ違い、口伝で受け継がれてきたからこその揺らぎもあります。しかし、それもまた民俗芸能の面白さです。大切なのは、基本の形を大事にしながら、その時代の人が楽しみ、次の世代へ手渡していくことです。古い形を守りつつ、新しい工夫も受け入れる。その絶妙なバランスこそが、箕輪家流隅田囃子の魅力であり、これからも地域の中で生き続けていく力なのだと思います。

※2026年10月20日実施の『すみだ五彩の芸術祭』地域コーディネーター企画 祭談義「隅田囃子(箕輪囃子)を知る会」の五味代表の講演を要約したものです。

